「LGBT」という言葉について思うこと
私自身がレズビアンで、当事者だからそう感じるだけなのかもしれないけれど、「LGBT」という言葉がここ1,2年で急速に日本に浸透してきた気がします。
私が学生だった20年前には、「LGBT」という言葉はまだ登場していませんでした。
「セクシャルマイノリティ」という言葉の登場も、まだ先になるその頃の話。そこでのセクシャルマイノリティに対する一般的な呼称に総称はなく、「レズ」「ホモ」「オカマ」「オナベ」だったし、それは当事者以外から発せられる場合は必ず、蔑称として使用されていました。地方だったこともありますが、一般的にはレズビアンもゲイもいないという前提で社会は動いているように感じていました。
それがです、「LGBT」という言葉の登場。
初めてその言葉を耳にした日には全然ピンときていなかったし、それほど一般化していくとは思いもよらなかったですが、使われ始めて日本でも10年くらいは経ち、この言葉に対する意見云々は色々とあるとは思いますが、言葉の持つ影響力はこんなにも大きいのかと、結構驚いています。
確かに、当事者の想いよりも、経済的な側面が注目されていった経緯はあります。
20年程前、レズビアンやゲイの友人達と、私達が認知されていくには、経済面での効果を期待されるより他無いのかもしれないというような話をしていました。
当時の世間ではセクシャルマイノリティ人口は今よりも遥かに少なく見積もられていて、経済的なインパクトはほぼ無しと思われていましたが、つまりは、蓋を開けたら予想より多かったのでしょう。
皮肉ですが、もっと少数なら未だに無視されてしまったのでしょうが、ネットワークの発達とSNSの登場などにより、思ったより多かったんだねという事に、当事者以外が気づき、「これは金になる」とも思われ、「利用」も可能だと広告代理店も活用に向かったのだと思います。
それは正面から喜べない部分もあるけれど、大きな一歩には違いないと思うのです。
総称であるという事も大きいですが、利用できると思われるほど、この言葉には数の力を感じます。
今では少なくとも30代以下の方であれば、「セクシャルマイノリティ」と「LGBT」という言葉くらいは知っていて、当事者が存在している事実というのも、実感として持つかは別として持っていて、決してこの2つの単語を蔑称として使用すべき言葉ではない認識があると、信じています。
それでも未だに差別的な発言や行動は根強く残っているけれど、それが笑えない事であるという認知が進めば、次のステージに行ける気がするのです。
それは何も、セクシャルマイノリティだけに限った話ではなくて、多様性を受け入れていく過程と、それが必要である意味を、考えていくきっかけに繋がるんじゃないかなと、そんな事を思います。
なんで今回こんな事を書くに至ったかというと、先日読んだ70年程前に書かれた古い小説に、悪気の無い蔑称が綴られていて、久しく忘れていたけれど、時代の空気は言葉に宿るなと感じたからなのですが、逆に、言葉によって変わっていく時代の側面もあるのではないかと、たどたどしくも、その一端を書いておこうと思ったからなのでした。